Created on September 15, 2023 by vansw
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「生まれたのは男の子でした」と添田さんは言った。 「その子は予定通り、子易森と名付けられ ました。お産は安産で、とても元気な子供でした。 子易家にとっては初孫だったので、その子は 誰からも愛され、大事にされて幼児時代を送りました。 子易さんも、子易さんの奥さんも幸福に 毎日を送っておられたということです。生活は安定し、問題らしい問題もなく、奥さんも町での 生活にうまく馴染んでこられました。私はその頃はまだこの町におりませんから、当時の事情を 実際には知りません。 すべては後年まわりの人たちから聞かされた話です。しかし話してくれた のはみんな信用のできる確かな人たちですし、その内容にはまず間違いはないはずです。 要する に不幸の影のようなものは、子易さんの周辺には一片も落ちておらず、ものごとはすべてこの上 なく順調に運んでおりました」
添田さんはそこでいったん口を閉ざし、表情を欠いた目で、スカートの膝の上に置かれた自分 の両手を見つめていた。彼女の左手の薬指にはシンプルな金の指輪が光っていた。
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でもそんな幸福感に包まれた日々は長くは続かなかった、ということなのだろうか。私はそう 思った。 添田さんの口元にはそう言いたげな微かな震えが見て取れたからだ。
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