Created on September 15, 2023 by vansw

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取り残される ネスト


意味があるのではないか。


そういう視点は、彼にとってまったく新しく芽生えたものであり、これまでは思いつきもしな かったことだった。でもそのように考えていくと、気持ちはずいぶん楽になった。 迷いや鬱屈は 消え、生まれてほとんど初めて彼は心の平穏を得ることができた。 彼はそれまで胸に密かに抱い ていたすべての野心を、あるいは夢想にも似た希望を棚上げし、 地方小都市の中堅酒造会社の四 代目経営者として、安定した日々を送るようになった。活発な動きや目新しい変化のようなもの は、周りにほとんど見当たらなかったが、それについてとりたてて不満を感じることもなかった。 の自分が世の中の新しい流れから取り残されつつあるのではないかというあてのない焦燥感もいつ の間にかどこかに消えてしまった。 彼には確実な生活の基盤があり、帰るべき自分のささやかな 家があり、愛する妻と、そのお腹の中で健康に成長しつつある胎児が彼を待っていた。


ひとことで言い表すなら、彼は見晴らしの良い平らな台地にも似た、中年期という領域に足を 踏み入れたのだ。


彼は生まれてくる子供の名前を考えることに没頭した。 世間をあっと言わせるような小説を書 き上げたいというかつての情熱は、とりあえず彼の中から消えてしまったようだった。 子供の名 前を考えることそれが彼にとって何より重要な意味を持つ 「創作行為」となった。妻はその 作業を彼に喜んで一任した。 私は元気な子供を産む、あなたはその子に素敵な名前をつける、そ ういう分業にしましょう――と彼女は言った。 子供の名前を考えるのは、彼女が得意とする分野 ではなかったのだ。


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