Created on September 15, 2023 by vansw
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四十歳の誕生日を迎えた少し後のことだった。彼女が妊娠したのだ。二人にはとりあえず子供を つくるつもりはなかったし、避妊には気を配っていたのだが、ある日出し抜けに彼女が妊娠して いることが判明した。 その予定外の状況にどのように対処するべきか、二人は顔をつきあわせ、 あるいは電話で長く真剣に話し合った。 そして最終的に、堕胎だけは避けたいという彼女の意志 が尊重された。 二人とも子供を持つことにはさして興味を覚えなかったが(彼らは二人だけでい ることで十分満ち足りていた)、こうして小さな命が生まれたのだから、その流れを大事にした いと思った。話し合いの結果、彼女は長年勤めていた北アフリカの大使館を退職し、彼の住む福 島県の小さな町に落ち着くことになった。 そしてそこで来たるべき出産を待つ。
彼女が大使館の職を辞してもいいと思ったのには、これまで懇意にしてきた大使が、新政権の 誕生にあわせて交代させられ、後任としてやって来た新しい大使ともうひとつそりが合わなかっ たという事情があった。それによって、仕事への熱意もかなり薄れてしまった。また東京と福島 県との毎週の行き来に、さすがに疲労を覚えるようになってきた、ということもあった。とくに 妊娠中の身でそんな移動を繰り返すのは、次第にむずかしくなっていくだろう。
そしてまた彼と一緒に、ひとつ屋根の下で落ち着いた夫婦生活を送りたいという気持ちも、彼 女の中で強くなっていた。彼の親族とも今のところ友好的な関係は築かれているようだし、いか にも保守的な狭い町ではあるけれど、おそらくそれほどの問題もなく平穏に暮らしていけるはず だ。もし何か不都合があったとしても、夫がしっかり自分を護ってくれることだろう。彼女は子 第 易さんに対して、そういう信頼感を抱くことができるようになっていた。彼女の彼に対する思い は最初から最後まで、熱烈な愛というよりはむしろ総合的な人間評価に近いものだった。 彼女が
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