Created on September 15, 2023 by vansw

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小説……いったいそこで何を書けばいいのか、彼には今ではもうひとつ確信が持てなくなって いた。かつてはそんなことを思い悩む余裕もなく、岩の隙間から水が湧き出すみたいに、文章が すらすらと目の前に浮かんできたものだったが。彼がこうして山間の田舎町でぐずぐずくすぶ? ている間に、東京では数多くの重要な動きが日々活発に進行しており、自分がその最前線から遠 く離れた後方に取り残されてしまったように感じられた。東京のかつての文学仲間たちとのやり とりも、歳月を経るに従って熱気を欠いた、間遠なものになっていった。


そのような焦り混じりの心定まらぬ日々を、ほとんど義務的なまでに気怠くやり過ごしている とき――そのとき彼は既に三十五歳になっていたのだが――ふとした成り行きで十歳年下の美し い女性と知り合い、あっという間もなく恋に落ちた。それまでの人生で一度も経験したことのな いほど激しい心の震えを彼は感じることになった。その震えは測りがたいほど深く強く、彼を根 底から混乱させ動揺させた。自分がこれまで大事に守ってきた価値観が、 突然何の意味も持たな いただの空箱に成り果ててしまったみたいに感じられた。自分はいったいこれまで何のために生 きてきたのだろう? ひょっとして地球が逆に回転し始めたのではあるまいかと、真剣に不安に 駆られたほどだった。


彼女は町に住む知人の姪であり、東京の人だった。 山手線の内側で生まれ、ずっとそこで育っ た。ミッション系の女子大の仏文科を出ており、フランス語が流暢で、チュニジアだかアルジェ リアだかの大使館で秘書の仕事をしていた。知的な女性で、頭の回転も速く、文学や音楽にも通 じていた。そのような話題について、どれだけ長く話をしていても、興趣が尽きることはなかっ た。 彼女と差し向かいで親しく話をしているうちに、自分の中でしばらく前から眠り込んでしま


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