Created on September 15, 2023 by vansw
315
小説……いったいそこで何を書けばいいのか、彼には今ではもうひとつ確信が持てなくなって いた。かつてはそんなことを思い悩む余裕もなく、岩の隙間から水が湧き出すみたいに、文章が すらすらと目の前に浮かんできたものだったが。彼がこうして山間の田舎町でぐずぐずくすぶ? ている間に、東京では数多くの重要な動きが日々活発に進行しており、自分がその最前線から遠 く離れた後方に取り残されてしまったように感じられた。東京のかつての文学仲間たちとのやり とりも、歳月を経るに従って熱気を欠いた、間遠なものになっていった。
そのような焦り混じりの心定まらぬ日々を、ほとんど義務的なまでに気怠くやり過ごしている とき――そのとき彼は既に三十五歳になっていたのだが――ふとした成り行きで十歳年下の美し い女性と知り合い、あっという間もなく恋に落ちた。それまでの人生で一度も経験したことのな いほど激しい心の震えを彼は感じることになった。その震えは測りがたいほど深く強く、彼を根 底から混乱させ動揺させた。自分がこれまで大事に守ってきた価値観が、 突然何の意味も持たな いただの空箱に成り果ててしまったみたいに感じられた。自分はいったいこれまで何のために生 きてきたのだろう? ひょっとして地球が逆に回転し始めたのではあるまいかと、真剣に不安に 駆られたほどだった。
彼女は町に住む知人の姪であり、東京の人だった。 山手線の内側で生まれ、ずっとそこで育っ た。ミッション系の女子大の仏文科を出ており、フランス語が流暢で、チュニジアだかアルジェ リアだかの大使館で秘書の仕事をしていた。知的な女性で、頭の回転も速く、文学や音楽にも通 じていた。そのような話題について、どれだけ長く話をしていても、興趣が尽きることはなかっ た。 彼女と差し向かいで親しく話をしているうちに、自分の中でしばらく前から眠り込んでしま
315