Created on September 15, 2023 by vansw

Tags: No tags

313


までずっと長野県松本市に在住しておりまして、この土地のことは何ひとつ知りませんでした。 また夫は福島県の出身ですが、 郡山市内で生まれ育ったものですから、 この土地には地縁があり ません。たまたまこの町の学校に職を得て移ってきたというだけです。 そんなわけで、私が子易 さんについて得た知識のほとんどは聞きによるものです。 まわりの人たちが私に少しずつ教え てくれたことです。中には単なる噂話のようなものもあり、どこまでが実際にあったことなのか、 判断のつきかねるところもあります。 しかしもしその程度のことでよろしければ、子易さん個人 について私が知識として持っていることを、お話しすることはできます」


添田さんの話によれば、子易さんはこの町有数の素封家の長男として生まれた。 年の離れた妹 が一人いる。一家は代々造り酒屋を営み、 商売は繁盛していた。 地元の高校を卒業し、東京の私 立大学に進んだ。大学では経済学を専攻したが、学業にはあまり熱心ではなかったらしく、何年 留年した。本当は文学を専攻したかったのだが、家業を継がせたがった父親が頑としてそれを 認めず、心ならずも経営の勉強をさせられたせいだった。だから大学在学中は勉強そっちのけで、 友人たちとグループを組んで起ち上げた同人誌の活動に没頭し、短編小説もいくつか書いて、そ のうちの一編は大手の文芸誌にも転載された。 しかし小説家として自立するところまでは届かず、 大学を卒業してからは、数年間を東京でぶらぶらと文士気取りで過ごしたものの、業を煮やした 父親に引導を渡されて(つまり月々の仕送りを打ち切られて)、福島のこの小さな田舎町に戻っ て来ざるを得なかった。


そして家業の造り酒屋を継ぐべく、父親の下で経営者としての修業を積んだわけだが、仕事一


313 第二部