Created on September 15, 2023 by vansw

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だからそのうちに、個人的な事柄については質問しないようになってしまったのですが」


添田さんは脚をきちんと揃え、 スカートの膝の上で手を合わせていた。ほっそりとした十本の 指が、まるで編みかけの毛糸のように繊細に絡み合っていた。


「実を申しますと、私もまた子易さんという人についてそれほど多くの知識を持たないのです。 この図書館でかれこれ十年近く働いてきましたが、子易さんとそういう個人的な事柄についてお 話をしたことはほとんどありませんでした。 なんだか妙な話ですが、私が子易さんという方の人 柄をより密接に身近に知るようになったのは、むしろ亡くなってからなのです。生きておられる うちは、なんと言えばいいのでしょう、 いつも気持ちはどこかよその場所にあるような、超然と した雰囲気を身辺に漂わせておられました。 決して冷たいとか偉そうとか、そういうのではなく、 私たちには優しく親切に接して下さるのですが、まわりの現実の事柄にもうひとつ関心が向かな いというか、微妙に距離をとって人に接しておられたような気がします。


でも亡くなられてからは、つまり魂だけになられてからは、まっすぐ私の目を見て、気持ちを 込めてお話をなさるようになりました。 その人柄もこれまでになく生き生きした、人情味のある ものになってきたようでした。 亡くなってからの方が人間的に生き生きしているというと、なん だか妙な言い方になりますが、それまで内側に大事に隠されていたものが、亡くなられたことに よって、外に現れてきたのでしょう」


「生きている子易さんの心を覆っていた堅い殻みたいなものが取り去られた」


「はい、実にそのような感じでした」と添田さんは言った。「ちょうど春になって積もっていた 雪が解け、その下からいろんなものが次第にもとの姿を現してくるみたいに・・・・・・。 私は結婚する


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