Created on September 15, 2023 by vansw

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だ。 自分の頭がどうかしているのではないかと疑ったこともあっただろう。


私は言った。「実のところ昨日の夜まで、彼が既に亡くなっていたことを知りませんでした。 この図書館に着任して以来、子易さんのことを実際に生きている人だとずっと思い込んでいたの です。誰もそんなことを教えてはくれなかったものですから。 昨夜ご本人の口から事情を聞かさ れて、当たり前のことですが、ずいぶん驚きました」


「驚かれて当然です」と添田さんは言った。「でも申し訳ないのですが、子易さんがもうこの世 の人ではないことを、私の口からあなたにお教えすることはできなかったのです」


私は添田さんに、昨日起こったことを一通り簡単に説明した。 夜の十時頃に子易さんから突然 うちに電話がかかってきて、この図書館に呼び出されたこと。そして図書館の奥にある半地下の 小部屋で、その温かいストーブの前で、 熱く香ばしい紅茶を飲みながら(それは子易さんが自ら 湯を沸かして淹れてくれたものだ)、自分は実はもう死んでしまった人間なのだと、本人の口か ら直接打ち明けられたこと。


添田さんは終始黙して私の話に耳を傾けていた。彼女の率直な一対の目は、眼鏡のレンズの奥 からまっすぐ私の顔を見据えていた。私の話の裏に潜んでいるかもしれない何かをもしそう いうものがあるなら読み取ろうとするかのように。


「子易さんはきっと、あなたのことが個人的に気に入っていらっしゃるのだと思います」、私が 語り終えたとき、彼女は静かな声でそう言った。 「そしてまた、あなたのことが、あるいはあな たが心に抱えている何かしらが、気にかかっておられるのだと」