Created on September 15, 2023 by vansw
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「子易さん、 実を言いますと、私はすべての住民が影を持たないその土地にあっても、今と同じ ようにやはり図書館の仕事をしていました。 これとそっくり同じ薪ストーブのある小さな図書館 でした」
子易さんはちらりと後ろを振り向き、ちゃんと聞こえたというしるしに一度だけこっくりと肯 いた。しかしとくに意見は述べなかった。 ただ黙って一度肯いただけだ。 そして階段を上って部 屋を出て、 後ろ手にそっと扉を閉めた。
そのあと廊下を行く足音が聞こえたような気がしたが、それはあるいは気のせいだったかもし れない。本当は何も聞こえなかったのかもしれない。 もし聞こえたとしても、それはきわめてさ さやかな足音だったはずだ。
子易さんがいなくなったあと、しばらく私はその半地下の部屋で一人きりの時間を過ごした。 子易さんがいなくなってしまうと、ついさっきまで彼がそこにいたこと自体がまぼろしだったの ではないかという強い疑念に襲われた。 私はずっと一人でここにいて、ただあてもない妄想に耽 っていただけではないのかと。しかしそれは幻想でも妄想でもなかった。その証拠には、机の上 には二客の紅茶茶碗が空になって残っていたからだ。ひとつは私が飲んだものであり、ひとつは 子易さんが――あるいは彼の幽霊が(あるいは仮初めの身体を持った彼の意識が)-飲んだも のだ。
私はため息をつき、机の上に両手を置いて目を閉じ、時間の過ぎゆく音に耳を澄ませた。しか もちろんそんな音は聞こえなかった。 聞こえるのはストーブの中の薪が崩れる音だけだった。
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