Created on September 15, 2023 by vansw
303
になりました。 示唆に富んだ読み物であり、そこから学んだり感じたりするところが多々ありま した。 その「詩編」 の中にこんな言葉が出てきます。「人は吐息のごときもの。その人生はただ の過ぎゆく影に過ぎない」」
子さんはそこで言葉を切り、把手を引いてストーブの扉を開け、火箸を使って薪のかたちを 整えた。そしてその言葉をゆっくりと繰り返した。自分自身に言い聞かせるみたいに。 「人は吐息のごときもの。その人生はただの過ぎゆく影に過ぎない」。ああ、おわかりになりま すか? 人間なんてものは吐く息のように儚い存在であり、その人間が生きる日々の営みなど、 移ろう影法師のごときものに過ぎんのです。 ああ、わたくしは昔からこの言葉に心惹かれており ましたが、その意味が心底理解できたのは死んだあと、このような身になってからでありました。 はい、わたくしたち人間はただの息のような存在に過ぎんのです。そしてこうして死んでしまっ たわたくしにはもう影法師さえついていないのです」
私は何も言わず、子易さんの顔を見ていた。
「あなたはまだそうして生きておられる」と子易さんは言った。「ですから、どうか命を大事に なさってください。 あなたにはまだ黒い影法師がついているのだから」
子易さんは立ち上がり、くったりとしたベレー帽をとって頭にかぶった。 そしてマフラーを首 に巻いた。
「さあ、もうわたくしは行かねばなりません。この姿を消さねばなりません。それではまた近々 にお会いしましょう」
私は思い切って彼の背中に声をかけた。
APP