Created on September 15, 2023 by vansw

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になりました。 示唆に富んだ読み物であり、そこから学んだり感じたりするところが多々ありま した。 その「詩編」 の中にこんな言葉が出てきます。「人は吐息のごときもの。その人生はただ の過ぎゆく影に過ぎない」」


子さんはそこで言葉を切り、把手を引いてストーブの扉を開け、火箸を使って薪のかたちを 整えた。そしてその言葉をゆっくりと繰り返した。自分自身に言い聞かせるみたいに。 「人は吐息のごときもの。その人生はただの過ぎゆく影に過ぎない」。ああ、おわかりになりま すか? 人間なんてものは吐く息のように儚い存在であり、その人間が生きる日々の営みなど、 移ろう影法師のごときものに過ぎんのです。 ああ、わたくしは昔からこの言葉に心惹かれており ましたが、その意味が心底理解できたのは死んだあと、このような身になってからでありました。 はい、わたくしたち人間はただの息のような存在に過ぎんのです。そしてこうして死んでしまっ たわたくしにはもう影法師さえついていないのです」


私は何も言わず、子易さんの顔を見ていた。


「あなたはまだそうして生きておられる」と子易さんは言った。「ですから、どうか命を大事に なさってください。 あなたにはまだ黒い影法師がついているのだから」


子易さんは立ち上がり、くったりとしたベレー帽をとって頭にかぶった。 そしてマフラーを首 に巻いた。


「さあ、もうわたくしは行かねばなりません。この姿を消さねばなりません。それではまた近々 にお会いしましょう」


私は思い切って彼の背中に声をかけた。


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