Created on September 15, 2023 by vansw
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今でもわかりません。 ものごとの流れのままに、逆らうことなく流されていっただけです。 その 過程において、それが何を意味するのか定かには判別できないまま、自分の影と一時期離ればな れになりました。 そこに住む人々が誰ひとり影を持たない街で」
子易さんは何も言わず、ただ顎を撫で続けていた。それからおもむろに口を開いた。
「先ほども申し上げましたが、 このように死者の身になりましても、わたくしには理解できない ものごとが数多くあります。 はい、生きていたときと同じようにです。 残念ながらと申しますか、 人は死んだからそれだけで賢くなれるというわけではありません。ですからあなたのご質問にこ こできっぱりお答えすることは、残念ながらできそうにありません。 この世界にはまた、簡単に 説明してはならないこともあるのです」
子さんは左の手首を持ち上げ、そこにはめた針のない腕時計にちらりと目をやった。顔つき からするに、たとえ文字盤に針はなくても、それは子易さんにとって不足なく時計の役を果たし ているらしかった。あるいはただ生きていたとき身についた習慣を引き継いでいるだけなのかも しれないが。
「わたくしはそろそろ失礼しなくてはなりません」と子易さんは言った。「長い時間この仮初め の姿かたちを維持することはできないのです。昼間よりは夜更けの方が、より長く地上に留まっ ておられますが、このあたりが限度です。 そろそろ消えなくてはならぬ頃合いとなってきました。 またお会いして語り合いましょう。 ああ、もちろんあなたがそれをお望みになればということで すがもしご迷惑になるようであれば、わたくしはもう二度とあなたの前に姿を見せないように いたしますが」