Created on September 12, 2023 by vansw

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た。自分の心臓がそんな大きな音を立てるなんて、とても信じられないくらいです」


子易さんはそのときのことを思い出すように、軽く目を閉じた。


「その次にわたくしの頭に浮かんだのは、どういうわけかわかりませんが、ボートに浸水してき た水を、小ぶりな手桶でせっせとかい出している光景でした。 わたくしは大きな湖の真ん中で、 一人で手こぎボートに乗っておるのですが、船体のどこかに穴が空いているらしく、そこから勢 いよく冷たい水が入り込んでくるのです。 どうして山の中で、死に際にそんなことを考えついた のか、そのへんは自分でもよくわかりません。 しかし何はともあれ、わたくしとしてはこの水を かい出さなくてはなりません。そうしなければボートはほどなく水底に沈んでしまいます。 それ がわたくしが人生の最後に目にした光景でありました。 考えてみれば不可思議なものですね。 あ あ、人の一生などその程度のものなのでしょうか。 それからやがて無がやって参りました。 まっ たくの無です。ええ、走馬灯なんて気の利いたものは、ちらりとも目にしませんでした。湖に辛 うじて浮かんだおんぼろ手こぎボートと、ちっぽけな手桶――それだけです」


沈黙。


「あっという間の死だったのですね?」


「はい、ああ、実にあっけない死でありました」と子易さんは肯いて言った。 「覚えておる限り、 肉体的苦痛もほとんど感じなかったようです。 それはあまりに出し抜けであり、また――なんと 申し上げましょうかあまりに簡単であったもので、自分が今ここで死につつある、生命を失 いつつあるという認識も持ちませんでした。 そのようなわけで、かくして幽霊の身になってから も、自分が死んでしまったということが事実として、実感としてもうひとつすんなり呑み込めず


295 第二部