Created on September 12, 2023 by vansw
290
「はい、たしかに見かけは生きていたときと同じかもしれません。 このように、いちおうは筋の 通った会話を交わすこともできます。 しかしわたくしが死んでいる、もうこの世のものではない
という事実に、なんら変わりはありません。 誤解を恐れることなく、昔ながらの便宜的表現を用 いるなら、今のわたくしは幽霊とでも言うべき存在なのです」
部屋に深い沈黙が降りた。 子易さんは口元に微かな笑みを浮かべ、膝の上で両手をごしごしと 擦り合わせながら、ストーブの火を見つめていた。
この人は冗談を言っているのかもしれない、ただ私をからかっているのかもしれないそう いう可能性が私の頭をよぎった。 通常の場合であれば、それは十分あり得る可能性だ。 人によっ ては真顔で冗談を言うし、 人をからかいもする。 しかしどう考えても、子易さんはそのような冗 談を口にして喜ぶタイプの人ではなかった。それになんといっても、彼は実際に影を持っていな いのだ。当たり前の話だが、 冗談でちょっと影を消すというわけにはいかない。
現実という言葉が私の中で本来の意味を失い、ばらばらにほどけていった。 何が現実であるか を確かめるために必要な基準の柱を、私はもう持ち合わせていないようだった。混乱した意識の 中でゆっくり首を振ると、壁に映った私の長く黒い影も、同じようにゆっくり首を振った。 その 動作は実際よりいくぶん誇張されてはいたが。
怖いか? いや、とくに怖いとは思わない。 どうしてかはわからないが、たとえ私が今目の前 にしているこの老人が本当に幽霊なのだとしても、彼と夜中の部屋に二人きりで向き合っている ことに、私は恐れをまったく感じなかった。 そう、それは十分あり得ることなのだ。死んだ人と 話をして何がいけないのだろう?
膝
ひず早