Created on September 12, 2023 by vansw
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「資格というのは、ああ、いささか場違いな言葉遣いかもしれませんね。なんと言いますか、 い かにも形式張った言い方です。 しかしながらそれ以外の適切な表現を、 わたくしはうまく思いつ くことができんのです。 最初にあなたにお目にかかったときから、わたくしにはそれがはっきり とわかりました。 この人はわたくしの言わんとすることを、また言わなくてはならんことを、正 しく呑み込んで、理解してくださる方だと。 そういう資格を有しておられる方だと」
ストーブの中の薪が崩れる、かさっという音が聞こえた。 まるで動物が姿勢を変えるときに立 てるような、小さく唐突な音だ。
私は話の流れがよく理解できないまま口を閉ざし、 ストーブの炎を受けて赤く輝く子易さんの 横顔を眺めていた。
「思い切って打ち明けましょう」と子易さんは言った。 「わたくしは影を持たぬ人間なのです」 「影を持たない?」、私は彼の言葉をただそのまま反復した。
子易さんは表情を欠いた声で言った。 「はい、そうです。 わたくしは影を失ってしまった人間 なのです。 影法師というものを持ちません。 いつかお気づきになるのではと思っていたのです が」
そういわれて、私は部屋の白い壁に目をやった。 確かに彼の影はそこになかった。そこに映っ ているのは私の黒い影法師だけだった。それは天井から下がった電球の黄色い光を受けて、少し 斜めになって壁の上に延びていた。私が動けば、それも動く。 しかしそこに並んであるべき子易 さんの影は見当たらなかった。
「はい、ごらんのとおりわたくしには影がありません」と子易さんは言った。 そして念を押すよ
287 第二部