Created on September 12, 2023 by vansw
286
こうして訪れてらっしゃることを。 なんといっても、彼女がこの図書館を実質的に切り盛りし ているようなものですから、つまり、もし彼女がそのことを承知していないのだとしたら・・・・・・ 」 「いいえ、添田さんはこのことをご存じありません」ともの静かな声で、しかし妙にあっさりと 子易さんは言った。 「彼女はわたくしが夜分にここに来ておることを知りません。 これから先も 知らないままでしょうし、またあえて申し上げるならば、ああ、知る必要もないのです」
それについて何を言えばいいのかわからなかったので、私は沈黙を守っていた。 知る必要がな い? それはいったいどういうことなのだろう?
「そのへんの事情をご説明すると、長い話になってしまいます」と子易さんは言った。 「本当は もっと早い機会に、少しずつでもあなたに真実を申し上げるべきであったのです。 しかし機会を うまく見いだせぬまま、このように時間が経過し、季節が巡ってしまいました。 たぶんわたくし がいけないのでしょう」
子易さんは手にしていた紅茶を飲み干し、空のカップを机の上に置いた。かかんという乾いた 音が、小さな半地下の部屋に響いた。
「わたくしの申し上げる話はずいぶん奇妙に響くかもしれません。世間一般の人の耳には、おそ らくは信じ難いこととして聞こえることでしょう。 しかしながら、あなたならわたくしの話をそ のまま受け入れてくださるものと、確信しております。なぜならば、あなたにはそれを信じる資 格のようなものが具わっているからです」
子さんはそこで一息ついて、ストーブの炎が与えてくれた温かみを確かめるように、両手を 膝の上でごしごしと擦り合わせた。
.