Created on September 12, 2023 by vansw

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たら、その完結性はきっと損なわれてしまうことだろう。 密やかな朝霧が太陽の光に消えてしま うみたいに。


私はいつも不思議に思ったものだ。 同じ水を沸かしたお湯と、同じ陶器のポットと、同じ紅茶 の葉を使っているのに、子易さんの作る紅茶と、私のそれとではなぜこんなにも味わいが違って しまうのだろうと。 何度か子易さんの真似をして、同じような手順で紅茶を淹れてみたのだが、 試みは常に失望のうちに終わった。


私たちはしばらく何も言わず、それぞれにその紅茶を味わっていた。


「ああ、こんな遅い時刻にわざわざお越しいただいて、まことに申し訳なく思っております」と 子易さんは少しあとで、いかにも申し訳なさそうに言った。


「子易さんはこんな時刻、よくこちらにいらっしゃるのですか?」


子易さんはそれにはすぐに答えず、 紅茶を一口飲み、目を閉じて何かを考えていた。


「わたくしはここのストーブが、ああ、何よりも好きなのです」、子易さんはやがてそう言った。 大事な秘密を打ち明けるように。「この炎が、 この林檎の木の仄かな香りが、わたくしの身体と 心をじわりじわりと芯から温めてくれます。 わたくしにとってはその温かみが貴重なのです。 こ の儚い魂を温めてくれるものが。そのことがわたくしがここにお邪魔していることがあ なたにとってご迷惑でなければよろしいのですが」


はかな


私は首を振った。「いや、ちっとも迷惑なんかじゃありません。私としてはまったくかまわな いのですが、ただ、添田さんはそのことをご存じなのでしょうか? 子易さんが閉館後の図書館


285 第二部