Created on September 12, 2023 by vansw
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「わかりました」と私は言って、もう一度念のために枕元の時計に目をやった。 秒針は確かに時
を刻んでいた。深い静けさの中でコツコツという微かな音が聞こえた。
私は言った。「そうですね、今から図書館にうかがうことはできると思います。 それで、子易 さんは今どちらにおられるのでしょう?」
「わたくしは図書館の半地下の部屋で待っております。 はい、ストーブのあるあの真四角な部屋 です。ストーブは既にじゅうぶん暖まっております。 そこであなたをお待ちしたいと思っておる のですが、いかがなものでしょうか?」
「わかりました。 そこにうかがうようにします。 着替えとかもあって、三十分くらいは時間がか かるかと思いますが」
「けっこうですとも。待つのはちっともかまいません。 時間はふんだんにありますし、わたくし は夜更かしに慣れております。 眠くなることもありません。ですので、お急ぎになる必要はまっ たくないのです。 この部屋であなたがお見えになるのをゆっくりお待ちしております」
私は電話を切り首を捻った。 子易さんはどうやって図書館に入ったのだろう? 彼は玄関の鍵 を持っているのだろうか? 子易さんは館長を退職したわけだが、これまでずいぶん深く図書館 運営に関わってきた人だから、鍵をまだ持っていたとしてもべつに不思議はないのかもしれない。 真っ暗な図書館の奥の一室で、子易さんがストーブの前に座って、私が来るのを一人で待って いる光景を思い浮かべた。 それはかなり奇妙な光景であるはずだったが、私にはそれほど奇妙に は思えなかった。 何が奇妙で、何が奇妙ではないのか、その判断の軸が私の中であちこちに揺れ 動いているようだった。
281 第二部