Created on September 12, 2023 by vansw
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そんな遅い時刻に電話のベルが鳴るのはまずなかったことだし、子易さんがうちに電話をかけて くるのもきわめて稀なことだった(はっきりしたことは思い出せないが、そのときがおそらく初 めてだったはずだ)。
私は読書用の古い安楽椅子(子易さんがどこかで調達してきてくれたもの)に座って、フロア スタンドの明かりでフロベールの『感情教育』を再読していた。 古い活字に目が疲れてきたので、 そろそろ寝支度をしようかと考え始めているところだった―だいたいいつもと同じように。 「もしもし」と子易さんが言った。 「夜分、 申し訳ありません。 子易ですが、 まだ起きておられ ましたでしょうか?」
「ええ、まだ起きています」と私は言った。まさに眠ろうとしているところではあったが。
「ああ、まことにもって勝手なお願いだとは思うのですが、いかがでしょう? 今から図書館に おいでいただくというのは無理な相談でしょうか?」
「今からですか?」と私は言って枕元の目覚まし時計に目をやった。時計の針は十時十分を指し ていた。私は子易さんが腕にはめていた針のない時計を思い出した。 この人には時刻がわかって いるのだろうか?
「時刻が遅いことはよくよく承知しております。 もう午後の十時を過ぎておりますし」と子易さ んは言った。私の心を読み取ったみたいに。「しかし、いささかもって大切な用件なのです」
「そしてその用件とは、電話で話せるようなことではないのですね?」
「ええ、そうなのです。 電話で話せるような簡単な用件ではありません。電話はだいたいあまり あてになるものではありませんし」
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