Created on September 12, 2023 by vansw
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針を持たない古い腕時計を身につけ、いつもスカートをはいている一人の老人――その謎めい た存在は何を意味しているのだろう。そこには何らかのメッセージが含まれているようだ。 おそ らくは私個人にあてられたメッセージが・・・・・・。 でもそんなことを考えているうちにひどく眠くな り、椅子に座ったままの姿勢で眠りに落ちた。 眠るのには向かない硬く小さな椅子だったが、お かまいなく私は眠った。 短く濃密な眠りだった。その濃密さには、夢が断片を挟み込む隙間もな かった。 眠りの中で私は、薬罐が再びしゅうっと蒸気を立てる音を聞いた。あるいは聞いたよう な気がした。
私はしばらくあとで部屋を出て閲覧室に行って、カウンターにいる添田さんと少し話をした。 そして彼女に、子易さんはもう帰られたのかと尋ねた。
「子易さん?」と彼女は僅かに眉をひそめて言った。
「三十分ほど前まで半地下の部屋にいて、話をしていたんだけど。 見えたのは二時前だった」 「さあ、私は見かけませんでしたが」と彼女は奇妙に潤いを欠いた声で言った。 そしてボールペ ンを手に取って、やりかけていた仕事に戻った。 不思議だなと私は思った。 添田さんが持ち場の カウンターを離れることはほとんどないし、注意力の鋭い彼女が人の出入りを見逃すはずはない。 そういう人なのだ。
でもその素っ気ない口ぶりは、これ以上その話はしたくないという気持ちをはっきりと表して いた。少なくとも私はそう感じた。 だから子易さんに関する会話はそこで終わった。 私は半地下 の真四角な執務室に戻り、漠然とした違和感を抱えたまま薪ストーブの火の前で仕事を続けた。
275 第二部