Created on September 12, 2023 by vansw

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に呼応するかのように、上に載せていた黒い薬罐が勢いよく白い湯気を上げた。 子易さんはほと んど反射的にさっと身体をねじってそちらに目をやり(普段の物腰には似合わない素速さだっ た)、鋭い目つきで炎の様子を確かめ、異変のないことを確認してからまたこちらに視線を戻し


た。


でもそのときには、彼が口にしようとしていた言葉はそれがどのようなものだったのかは わからないけれど 既にどこかに失われてしまったようだった。瞳はいつものとろりとした色 合いに戻っていた。 彼はもう語るべきことを持たなかった。 赤く燃えるストーブの炎が、 そこに あったはずの言葉を残らず吸い取ってしまったかのようだ。


やがて子易さんはゆっくり椅子から立ち上がった。大きくひとつ呼吸をしてから、腰に手を当 てて背中をまっすぐ伸ばした。 固まった関節をひとつひとつほぐすみたいに。 それから机の上に 置いた紺色のベレー帽を手に取り、大事に形を整えてから頭にかぶった。 首にスカーフを巻いた。 「そろそろ失礼するとしましょう」と彼は自らに言い聞かせるように言った。「いつまでもここ にぐずぐずして、お仕事の邪魔をするわけにはいきませんからな。 なにしろストーブが燃えてい ると居心地がよろしいものですから、つい長居をしてしまいます。 気をつけなくては」


「そんなこと気にしないで、いくらでも長居をしていってください。 教えていただくこともまだ いろいろありますし」と私は言った。


しかし子易さんは笑顔を浮かべ、何も言わず小さく首を振った。 音もなく階段を上り、私に一 礼してから姿を消した。


どう(274


ひとみ (


눈동자