Created on September 12, 2023 by vansw

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あの時計台と同じだ、と私は思った。 あの壁に囲まれた街の、川べりの広場に立っていた時計 台と同じだ。文字盤はあるが、針はない。


時空が微かに歪んでいくねじれの感覚があった。 何かと何かが入り混じっている、私はそう感 じた。 境界の一部が崩れ、あるいは曖昧になり、現実があちこちで混合し始めている。その混乱 が私自身の内部にある何かによってもたらされたものなのか、あるいは子易さんという存在によ ってもたらされたものなのか、判断がつかなかった。 そんな混沌の中でなんとか自分を落ち着か 困惑を顔に出さないよう努めたが、 それは簡単なことではなかった。 私は口にするべき言葉 を失い、そこで会話が途切れた。


子易さんは机の向かい側から、そんな私の様子を眺めていた。 その顔にはとくに表情らしきも のは浮かんでいなかった。 何も記されていない白紙のノートのように。私たちはしばらくの間ど ちらも無言でいた。


でもある時点で、子易さんは何かをふと思いついたようだった。 あるいは何かを急に思い出し たのかもしれない。瞳が急に明度を増し、長く伸びた眉毛がぴくりと一度だけ揺れた。そして口 が薄く開いた。 これからおこなう発言の予行演習をしているかのように、小さな唇が音を持たな い言葉をいくつか形作った。うっすらと、でも確かな意思を持って。そう、彼は私に向かって何 かを告げようとしていたおそらく何かしら大事な意味を持つ事柄を。 私は机の向かい側でそ の言葉を待った。


しかしちょうどそのときストーブの中で、薪の崩れるがらりという音が聞こえた。 そしてそれ


273 第二部