Created on September 12, 2023 by vansw
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猫のように、両手を机の上にちょこんと載せた。この半地下の真四角な小部屋にこうして子易さ んと二人でいることは、何より自然な出来事であるように私には感じられた。
しかしある時点で私ははっと、あることに気がついた。彼のはめた腕時計に針がついていない ことに。
最初、自分の目がどうかしているのだと思った。あるいは光の加減で一時的に針が見えなくな っているだけなのだと。 しかしそうではなかった。 私はさりげなく指で目をこすり、 あらためて 見直してみたが、 彼の左手首にはまっている年代物の腕時計 おそらくは手巻き式だ―の文 字盤には針がなかった。 時間を示す短針も、分を示す長針も、秒を示す細い針も、あるいは他の どのような種類の針も見当たらない。ただ数字を振った文字盤があるだけだ。
私はよほど子易さんに尋ねてみようかと思った。 どうしてあなたの腕時計には針がないのです か、と。そうすれば子易さんは、その理由なり事情なりを気軽に説明してくれたかもしれない。 あるいは私は実際にそう質問するべきだったのかもしれない。 しかし何かが私に、そうしない方 がいいと告げていた。私は相手に気づかれないように他の話をしながら、さりげなくその左手首 に何度か目をやっただけだ。
それから私は念のため自分の腕時計に目をやった。総体としての時間に何かまずいことが持ち 上がったのではないかと、ふと心配になって。でも私の左手首にはまった腕時計の文字盤には、 いつもどおりすべての針が揃っており、それらの示している時刻は午後二時三十六分四十五秒だ った。それは四十六秒になり、四十七秒になった。時間はこの世界にまだ無事に存在しており、 間違いなく前に進んでいた。 少なくとも時計的にはということだが。
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