Created on September 11, 2023 by vansw

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ちろん紺色のベレー帽。 上着は厚い生地のツイード、そういった衣服を彼はずいぶん気持ちよさ そうに着こなしていた。 コートは着ていない。おそらく玄関で脱いで置いてきたのだろう。


子易さんは顔にいつものにこやかな笑みを浮かべ、私に簡単に挨拶をすると、まっすぐストー ブの前に行き、ベレー帽もとらずにしばらくそこで両手を温めていた。 それが何より大事な儀式 ででもあるかのように。 それから私の方を振り向いて言った。


「さて、部屋の居心地はいかがでしょうか?」


「気持ちよく暖かいし、静かで落ち着きます」


子易さんは「そうだろう」というように何度も肯いた。


「ストーブの火というのは実によろしいものです。 それは身体と心を同時に、うむ、芯から温め てくれます」


「たしかにそのとおりですね。 身も心も温まります」と私は同意した。


「林檎の木の香りもなかなか素敵なものでしょう。 ああ、なんというか、香ばしくて」


私はそれにも同意した。 薪に火をつけるとやがて部屋中にうっすらと林檎の香りが漂ってくる。 しかしそこには心地よさと同時に、私にとってはいささか危険な要素も含まれていた。というの は、その香りは私を知らず知らず深い夢想の世界に誘っていくように思えたからだ。 人の心を 組みのない世界に引き込んでいく気配がそこにはあった。


そういえばあの街の門の外には林檎の林が広がっていたな、と私は思った。 門衛が林檎をもい で、街の人々に与えた。門の外に出ることが許されているものは、門衛の他にいなかったから。 そして図書館の少女はその林檎で菓子を作ってくれた。 私はまだその味を思い出すことができた。


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