Created on September 10, 2023 by vansw

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かって寡黙に歩を運んだ。


でもこの山あいの小さな町に暮らす私は、図書館が閉館したあと、一人ぼっちで川沿いの道を 歩いて自宅に戻った。 口を閉ざし、あてのない物思いに耽りながら。 そこにはせせらぎの音はあ ったが、川柳の葉ずれや夜啼鳥の声はなかった。 「秋になれば鹿の鳴き声が聞こえる」と子易さ んは言ったが、それも聞こえなかった。鹿が鳴くのはおそらくもっと秋が深まってからなのだろ う。でも考えてみれば鹿がどんな声で鳴くものか 私はそれも知らないのだ。鹿はいったいどん な声で鳴くのだろう?


図書館長に就任して少し経ったある日、添田さんが私を連れて、図書館内部を一通り案内して くれた。天井の高い大ぶりな建物で、以前はここで酒造業が営まれていた。 その造り酒屋は新し い場所に移転し、古い建物は長いあいだ何に使われることもなくただ放置されていたのだが、歴 史的建築物としても貴重であり、取り壊してしまうのは惜しいということで財団が起ち上げられ、 この古い醸造所を図書館として生まれ変わらせたのだ。


「それにはずいぶん多額の費用がかかったでしょうね」と私は言った。


「そうですね」と添田さんは少しだけ首を傾げて言った。「でも土地と建物は、もともとが子易 さんの所有物でして、彼はそれをそっくり財団に寄贈しましたから、そのぶん費用がかかりませ んでした」


「なるほど」と私は言った。 それでいろんなことの納得がいく。この図書館は実質的には子易さ ん個人が所有し、運営していたようなものなのだ。


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