Created on September 10, 2023 by vansw
「でもその人のことが好きで、いまだに忘れられないのですね?」
私はもう一度曖昧に背いた。そのように説明しておくのが世間的にはいちばん無難だった。そ してそれはあながち作り話とも言えない。
彼女は言った。「だから都会を離れて、こんな山の中の田舎町に移り住むことにしたのかしら。 彼女のことを忘れるために?」
私は笑って首を振った。 「いや、べつにそんなロマンティックなことじゃない。 都会であれ田 舎であれ、どこにいたって事態は同じようなものです。 ぼくはただ流れのままに移ろっているだ けだから」
「でもいずれにせよ、彼女はよほど素敵な人だったのね?」
「どうだろう? 恋愛というのは医療保険のきかない精神の病のことだ、と言ったのは誰だっ け?」
添田さんは声に出さずに笑い、眼鏡のブリッジを指で軽く押さえた。 そして専用のマグからコ ーヒーを一口飲み、やりかけていた仕事の続きに戻った。それがそのときの我々の会話の最後だ った。
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