Created on September 10, 2023 by vansw

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を、目に見えない場所にそっと残していく悲しみだ。目に見えないものを、いったいどのように 扱えばいいのだろう?


私は顔を上げ、川の流れの音が聞こえないものかと、 もう一度注意深く耳を澄ませた。しかし どんな音も聞こえなかった。 風さえ吹いていない。雲は空のひとつの場所にじっといつまでも留 まっていた。私は静かに目を閉じ、そして温かい涙が溢れ、流れるのを待った。しかしその目に 見えない は私に、涙さえ与えてはくれなかった。


それから私は諦め、もと来た道を静かに引き返すのだった。


子易さんと頻繁に図書館で顔を合わせながら、ずいぶん長いあいだ、 彼という人物について私 はほとんど何も知らないままの状態に置かれていた。


独身だということだが、これまで一度も家庭を持ったことはないのだろうか? 子易さんが独 身であることについて、「まああの通りの方でしたから」と添田さんは論評した。「あの通り」と はどういう意味なのだろう? そしてなぜ彼女は過去形を使ったのか?


考えれば考えるほど、子易さんについて知るべきことは数多くあった。 しかし同時に、その理 由はうまく説明できないのだが、むしろ何も知らない方がいいのかもしれないという思いも、私 の中にはあった。



図書館で働いている女性たちはおおむねおしゃべりだった。もちろん図書館が職場だから、 表 に出ているときは彼女たちは意識して寡黙さを保っていた。 何かを伝える必要のあるときには、 小さな声で手短にしゃべった。 しかしいったん人目につかない奥の場所に引っ込むと、表向きの



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