Created on September 10, 2023 by vansw
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れもなくふらりと館長室にやって来て、 仕事の引き継ぎを手伝ってくれ、判断に困ることがあれ ば適宜有益なアドバイスを与えてくれた。もし彼がいなかったら、私はその仕事の要領を掴むま でに、かなりの時間と手間を要したことだろう。仕事自体はさして複雑なものではなかったけれ ど、そこにはやはり細かいローカル・ルールのようなものが存在していたから。
しょうばん
私たちは図書館の運営について熱心に語り合い、その合間に一緒にお茶を飲んだ。 子易さんは コーヒーが苦手らしく、飲むのは常に紅茶に限られていた。館長室のキャビネットの中には彼専 用の白い陶製のティーポットが置かれ、特別にブレンドした茶葉が用意されていた。彼は電熱器 でお湯を沸かして、何より大事そうに注意深く紅茶を淹れた。私もそのお相伴にあずかったが、 色といい香りといい、うっとりするほど美味な紅茶だった。 私はコーヒー党だったが、 彼の淹れ た紅茶を一緒に味わうことは私にとって、日々のささやかな喜びのひとつになった。その味を褒 めると、子易さんはとても嬉しそうな顔をした。
にもかかわらず、 図書館以外の場所で私たちが顔を合わせることはなかった。この人はプライ ベートな領域で他人と触れあうことがあまり好きではないのだろうと私は想像した。 そしてそれ は正直なところ、私にとってもむしろありがたいことだった。
私は図書館の仕事を終えて帰宅すると、簡単な一人ぶんの食事を作り、あとは読書用の椅子に 座ってひたすら本を読んだ。 家にはテレビもなかったし、ステレオ装置もなかった。 防災用のト ランジスタ・ラジオがあるだけだ。ラップトップ・コンピュータはあったが、もともとそれを用 いることはあまり好きではなかったから、椅子に座り込んで好きな本を読むくらいしかやること はなかった。
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