Created on September 10, 2023 by vansw
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「いいえ、いいえ」と彼は手を振って言った。 「これくらいお安い御用です。 よそからこの町に 越してこられる方は珍しいですから」
そのようにしてZ**町における私のささやかな、新しい生活が始まった。 毎朝八時過ぎに家 を出て、川沿いの道を上流に向けて歩き、 それから町の中心部に向かう道を歩いた。会社に勤め ているときと違って、スーツを着る必要もなく、ネクタイを締める必要もない。窮屈な革靴を履 く必要もない。それは私には何よりありがたいことだった。それだけでも仕事を変えた意味はあ る。いったんそういう生活を捨ててしまうと、自分がこれまでどれほどの不自由に耐えてきたか が実感できた。
川の水音は心地よく、目を閉じるとまるで私自身の内側を水が流れているような錯覚に襲われ るほどだった。まわりの山から流れてくる水は澄んでいて、ところどころに小さな魚たちが泳い でいるのが見えた。 石の上にほっそりとした白い鷺がとまり、辛抱強く水面を睨んでいた。
この町の川は、あの「壁に囲まれた街」を流れていた川とはずいぶん見かけは違っていた。そすべ こには大きな中州もなく、柳の木も生えていなかった。石造りの古い橋もかかっていなかった。
えにしだ
もちろん金雀児の葉を食べる単角獣たちの姿もない。 そして両脇を無個性なコンクリートの護岸 に囲まれていた。しかし流れる水は同じように澄んで美しく、涼しげな夏の水音を立てていた。 私は自分がそのような心地よい川のそばに暮らせることをうれしく思った。
町はまわりを高い山に囲まれた盆地にあったので、夏は暑く、冬は寒いということだった。 私 が町に越してきたのは八月の終わりで、山里ではそろそろ秋が始まり、蝉たちのうるさい声もも
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外
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すます