Created on September 10, 2023 by vansw
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五時間近くかかったと私は言った。
「そうですか」と男は言った。 「新幹線のおかげでずいぶん時間が短縮されましたが、わたくし はあまり外に出んもので、そのへんのことはよくわかりません。 東京にもなにしろずいぶん長く 足を運んでおりませんので」
男の声には一種不思議な感触があった。 こなれた柔らかな布地の肌触りを思わせる。 ずっと昔 どこかでそれに似た声音を耳にした覚えがあったが、それがいつどこでだったか、急には思い出 せなかった。
陽光の明るさに次第に目が慣れてくると、男がおそらくは七十代半ばあたりであることがわか ってきた。 灰色の髪が頭の奥の方まで後退している。 上瞼が分厚く、一見眠そうに見えたが、そ の下からのぞいている瞳の色は明るく、意外なほどの生気を感じさせた。
こ やすたつや
彼はデスクの抽斗を開け、そこから名刺を一枚取りだし、デスク越しに私に寄越した。 白い紙 に黒いインクで「福島県 ***郡 Z**町図書館館長 子易辰也」と印刷されていた。 図書 館の住所、そして電話番号。 とても簡素な名刺だった。
「子易と申します」と子易氏は言った。
「珍しいお名前ですね」と私は言った。 名前について何かひとこと述べた方がいいような気がし たからだ。 「このあたりには多いお名前なのですか?」
子易館長は笑みを浮かべながら首を振った。「いやいや、このあたりでも、子易姓を名乗るの はわたくしどもだけです。 他にはおりません」
私は念のために以前の会社で使っていた名刺を、カード入れから出して差し出した。
217 第二部