Created on September 09, 2023 by vansw
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少なくともそこでの私はもう、一ヶ所に重く留まった鉄球ではない。 僅かずつではあるが、ど こかに向けて進んでいるようだ。どこに向けてだかはわからない。しかしそこにあるのは決して 悪い感覚ではない。
私はそこでふと気づく。帽子がひとつ、私のデスクの隅の方に置かれていることに。濃い紺色 のベレー帽、古い映画で画家が定番のアクセサリーとしてかぶっているような帽子だ。 長年にわ たって日常的に誰かの頭に載せられていたものらしく、生地が見るからにくったり柔らかくなっ ているまるで日向で眠り込んでしまった老いた猫のようだ。ベレー帽のある風景―――そして その帽子はどうやら私のものであるらしかった。しかし不思議な話だ。 私は普段帽子というもの ほとんどかぶらないし、ましてやベレー帽なんて生まれてこの方(記憶している限り) 一度も かぶったことがない。そのベレー帽をかぶった私は、どのように見えるのだろう? どこかに鏡 がないか、部屋の中を見渡してみる。 でも鏡に類するものはどこにも見当たらない。私はその帽 子をかぶらなくてはならないのだろうか? それはどうしてだろう?
そこで私ははっと目を覚ます。
部
その長い夢から覚めたのは夜明け前の時刻だった。 あたりはまだ薄暗い。それが夢であったこ とを認識するまでに その夢の世界から自分の身体をすっかり引き剥がして、こちらの現実に 戻すまでに時間がかかった。 微妙な重力の調整のようなものが必要とされた。 それから私はその夢を頭の中で何度となく再生し、細部をひとつひとつ検証した。うっかり忘
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