Created on September 09, 2023 by vansw
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しかしその世界に戻っていく手立ては、私には与えられていない。
経済的な側面からいえば、さしあたって問題と言えるほどのものはなかった。それなりの蓄え はあったし(以前にも述べたように、私は長年にわたってずいぶん簡素な独身生活を送ってきた のだ)、五ヶ月は失業保険を受け取ることができた。 この十年ばかり、通勤に便利な都内の賃貸 のアパートに住んでいたが、 もっと家賃の安い物件に移ることも可能だ。 というか、考えてみれ ば私はこの今、日本国中どこでも好きな場所に移り住むことができるのだ。 しかしどこに行けば いいのか、具体的な場所をひとつとして思いつけなかった。
そう、私はこの地上に停止した鉄球でしかない。ずしりと重い、求心的な鉄球だ。 私の思念は その内側に堅く閉じ込められている。 見栄えはしないが、重量だけはじゅうぶんそなわっている。 誰かが通りかかって、力を込めて押してくれなければ、どこにも行けない。 どちらにも動けない。 私は何度も私の影に向かって問いかけてみる。 これからどこに行けばいいのだろう、と。しか し影は言葉を返してはくれない。
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