Created on September 09, 2023 by vansw

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はくだつ


職を辞して自由の身となったものの、その後何をすればいいのか、計画と呼べそうなものを持 ち合わせていなかった。だからとりあえず、可能な限り何も考えず何もせず、ひとりで部屋に寝 転んで日々を送った。 それ以外に私にできることは何もなかった。 慣性を剥奪され、一切の動き を停止し、地面に放置された重い鉄球になったみたいに感じられた。 それは決して悪い感覚では なかったが。


その期間、私はなによりよく眠った。 一日に少なくとも十二時間は眠っていただろう。 眠って いないときもただベッドに横になり、部屋の天井を眺め、窓から入ってくる様々な物音に耳を澄 ませ、壁を移ろう影を見つめていた。 何らかの示唆をそこに読み取ろうとして。 しかしそんなと ころにはもちろん、いかなるメッセージも含まれてはいない。


本を読む気も起きないし(私にとってはかなり珍しいことだ)、音楽を聴く気にもなれない。 食欲もほとんど感じない。酒を飲みたいとも思わない。誰とも口をきかない。たまに食料品の買 い物をするために家の外に出ても、そこにある風景をうまく受け入れることができない。 犬を連 れて散歩する老人や、梯子に上って植木の手入れをする人々や、通学する子供たちの姿を目にし ても、それが現実の世界の出来事だとは思えない。 すべてはものごとのつじつまを合わせるため にこしらえられた書き割りとしか、立体を装った巧妙な平面としか見えないのだ。


はしご


私がリアルな世界の光景として捉えられるものといえば、川柳の繁った中州を望む川沿いの道


であり、針のない時計台であり、降りしきる雪の中を歩む冬の単角獣であり、 門衛が丹念に研ぎ


なた


上げた鉈の、不気味な輝きでしかない。


191 第二部