Created on September 09, 2023 by vansw

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そな


った特徴を持たない一人の男性だ。 私はもうあの街にいたときのような、 とくべつな能力を具え た「専門家」ではなくなっている。眼を傷つけられてもいないし、古い夢を読む資格を与えられ てもいない。巨大な社会を構成するいくつものシステムのひとつ、その歯車のひとつに過ぎない。 それもずいぶん小さな、 交換可能な歯車だ。私はそのことをいくらか残念に思わないわけにはい かない。


ここに戻ってきてからおそらく私は戻ってきたのだろうしばらくのあいだ、私は何ご ともなかったように毎朝電車に乗って会社に通勤し、いつもどおり同僚たちと簡単な挨拶を交わ し、会議に出て然るべき (しかしそれほど役に立つとも思えない) 意見を述べ、あとはおおむね 自分の机の前で、コンピュータに向かって作業をする。 メールで全国の支店に指示を出し、先方 から様々な要請を受ける。 ときどき会社の外に出て、書店の責任者や出版社の担当者と会って打 ち合わせをする。 それなりの経験を要することではあるが、とくに難しい仕事ではない。 ただの 小さな定型の歯車だ。


そしてある朝、私は上司に辞職願を出す。 これ以上この仕事を続けていくわけにはいかない。 考え抜いた末に、そう心を決める。今ここにある生活のレールからいったん心身を外さなくては ならない――たとえそれに代わる新しいレールが見当たらなかったにしてもだ。


上司は突然の申し出に驚愕する。 それまで私はそんな気配をまったく見せなかったから。 そし て彼は、私がライバルの会社にヘッドハンティングされたのではないかと考える。 そうではない


189 第二部