Created on September 07, 2023 by vansw

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ぼくは再び穴に落下する。 出し抜けにすとんと。以前あの惨めな二十歳前後の日々に足 を踏み外したときと同じように。でも今回落ちたのは比喩的な穴ではなく、地面に掘られた実物 の穴だ。いつどのようにしてその落下が起こったのか思い出せない。しかしたぶんただ単純に、 そのとき踏み出した足がたまたま地面を捉えられなかったのだろう。


意識が戻ったとき(とすれば意識は失われていたのだ)、 ぼくはその穴の底に身を横たえてい た。 身体に痛みをまったく感じないところをみると、落下したのではないのかもしれない。 そこ に運ばれて置かれたのかもしれない。でも誰によって? それはわからない。とにかくぼくの身 体は元あった世界から遠く離れた場所に移されていた。 現実から遠く、遠く、遠く、遠く隔てら れた場所だ。


時刻は夜だ。穴の上方に長方形に切り取られた空が見える。 空には多くの星が瞬いている。 そ れほど深い穴ではないらしい。 地上に上がろうと思えば、自分の力で這い上がることもできそう だ。 それがわかって少しほっとする。 でもぼくはひどく疲弊している。 身体を地面から起こすこ とができない。 手を上に挙げることもできないし、目を開けていることすらむずかしい。 身体が ばらばらにほどけてしまいそうなくらい、ぼくは疲れている。 ぼくはぼくはゆっくり目を閉 じ再び意識を失う。 そして深い非意識の海に沈み込んでいく。


それからどれほど時間が経過しただろう? 目を覚ましたとき、空はすっかり明るくなってい る。小さな白い雲が風に流されていくのが見える。鳥たちの声も聞こえる。 朝のようだ。 きれい に晴れ上がった、気持ちの良さそうな朝だ。 そして誰かが穴の縁から身体を乗り出すようにして、


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