Created on September 06, 2023 by vansw
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として、ぼくのことなんてすっかり忘れてしまったのだろうか?
いや、きみがぼくを簡単に忘れたりするはずはない。ぼくがきみを忘れたりすることがないの と同じように自分に何度もそう言い聞かせる。自分を納得させようとする。 でも女性という ものについて、その心理や生理について、ぼくがどれほどの知識を持っているというのか? い や、そんな一般論じゃなくて、きみについていったい何をぼくが知っているというのか?
考えてみれば、ぼくはきみについて何ひとつ知らないも同然なのだ。きみについて「これは間 「違いない」と断言できる客観的な事実、具体的な情報、そういうものをほとんど手にしていない。 ぼくが手にしているのは、きみ自身の口から聞かされたいくつかのきみに関する情報だけだ。 で もそれだって、きみが事実であるとして語っているだけで、本当の事実なのかどうか、確認しよ うもない。すべて架空の作りごとだったということになるかもしれない。 可能性としてはあ くまで可能性としてはだが―あり得ないことではない。
きみに関して間違いなく確かなもの、触知可能なものといえば、きみが一夏かけて語ってくれ 「壁に囲まれた街」くらいだ。 ぼくはその街についての情報を一冊のノートに詳細に記録した。 それはぼくら二人だけが存在を知る秘密の街だ。 そこに行けば、ぼくはきみに出会うことができ る本物のきみに。 きみからの手紙を待ち焦がれている日々、つらい気持ちになると、ぼくは よく目を閉じて川の中州の光景を想像し、 そこに繁る川柳を思ったものだ。その豊かな緑の枝は、 風を受けて優しく揺れていた。そして単角の獣たちが熱心に食べている金雀児の葉の匂いを嗅ぐ ことができた。壁を構成している煉瓦の、硬く冷ややかな表面を指先に感じることもできた。
えにしだ
HE
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